技術倫理

まえがき

本講義録は東京大学工学部システム創成学科の講義 「社会のための技術」(3年夏学期)の内容を示すものである。 技術倫理の基本的なところを知りたいのであれば、 本ページを読むだけで十分なように作ったつもりである。 さらに詳しいことを知りたいときには のところをクリックしていた だければ、補足事項が出てくる。 また、 をクリックするとマンガが出 てくるので、気晴らしにでも見ていただければ 幸いである。
本内容は、基本的には下記教科書に従っている。
科学技術者の倫理 その考え方と事例、 Charles E. Harris 他著、 (社)日本技術士会 訳編、丸善
その他の参考書についてはここ に置いておく。
技術倫理の学習では教科書に書いてあることを覚えることより 過去の実例や仮想事例に即して 自分だったらどうするかを考えることのほうが大切である。 過去の実例を使うなら「教材」は新聞記事にも インターネット上にもあふれている。 ただ、それらは教材としては未調理の状態にある。 私のほうで 教材として調理したものをここ に置いておくので、利用していただければ幸いである。

I.技術倫理とは

1.はじめに

 「技術者は技術倫理を学習すべきである。」 このようにいわれると反発したくなる人も多いのではないだろうか。 「倫理観というのは社会生活の中で自然と身につくもので 、他人が押しつけるものでは ない。 確かに倫理観に欠けている人がいることは認めるが、自分はそうではない」と。 それはその通りであろう。 ここで私が申し上げたいのは、 一般的な倫理を身につける修行せよということではない。 倫理には誰にも共通な「普遍倫理」(common morality)、 家族や居住地域、所属サークルで決まってくる「個人倫理」の他に、 職業に付随している「職業倫理」がある。 この職業倫理としての「技術倫理」ないし「技術者倫理」の学習・訓練の 必要性を知っていただきたいのである。

 本科目の先要科目、prerequisite は自然と身についたモラルである。 一通りのモラルを身につけている人を対象とする。 そう書くと、「モラルのない人にモラルを教えることのほうが大切でしょう」 と文句を言われるかもしれない。 確かに、最低限必要なモラルすら身につけていない人がいることも 認めざるをえない。 申し訳ないが、そのような人の教育はこの講義の範疇外である。 なぜモラルを 守るべきかについても詳しくは述べない。

 なお、「倫理」というとやや堅苦しく、 日常生活では「モラル」という言葉のほうがよく使われる。 英語のmoralは人が意識下で身につけているもの、 ethicsは規範として成文化できるもの、 と使い分けが行われているようである。 moralの訳がモラル、ethicsの訳が倫理と使い分けたほうがいい場合もあるが、 ここでは特に区別しない。 また、初等中等教育での「道徳 教育」について深く言及する気もない。

2.職業倫理

 人類は数多くの有用な知見を伝承することによって今日の社会を作り上げてきた。 このため現代社会は非常に複雑である。 我々は、日々の生活を送るに必要な世の中の仕組みや技術等について、 すべてをきちんと理解しているわけではない。 風邪薬を飲むとき、その成分は何か、なぜそれが有効なのか、 副作用があるとしたらどんなものか、 間違った成分が混入していてもっと悪い病気になる可能性は本当にないのか、 その製薬会社の経営状態は健全か、 等々、完璧に理解している人は、お医者さんを含めてもほとんどいないであろう。

 社会は分業で成り立っている。 現代社会では分業化が非常に進み、 個人個人は生活に必要な様々な手段の多くの部分を「専門家」に委ねて暮らしている。 自分では完全には理解できないため、判断も専門家に委ねざるをえない。 我々は専門家を信用せざるをえないのである。 ここでいう専門家とはなにも特殊な人々ではない。 医者や弁護士が専門家なのはいうまでもないが、 農業や漁業の従事者だって専門家である。 医者があすから農業や漁業をやれと言われたってできるものではない。 そして技術者ももちろん専門家である。 すなわち、我々はだれしもある分野では専門家であり、 その他の分野では専門家以外の集団すなわち公衆なのである。 場面場面で専門家になったり公衆になったりするのである。

 公衆は日々の生活の安全を専門家に委ねているのであるから、 専門家を信頼せざるをえない立場にある。 個人の顔が見える専門家の場合はまだ良い。 たとえば診断してくれるお医者さんとは会話を交わす。 その会話から「人となり」をある程度判断できる。 弁護士などもそうであろう。 しかし土木工事の技術者はどうか。 我々が橋を渡るとき、 その橋を設計した技術者の人となりを知っていることなどまずない。 その技術者がいいかげんな設計をしたのではないことを、 とにかく信じるしかないのである。

 人となりを知らないで、 その技術者の設計した橋の安全性を信じられるようにするにはどうしたらいいか。 国家試験などの資格制度、国などの検査制度、 事故を起こした場合への厳しい処罰制度などはもちろん有効である。 しかしそれだけで十分か。 最後は人と人の信頼関係ではなかろうか。 専門家がきちんとしたモラルを有していることが見えれば、 我々は安心してその専門家に安心を託せる。 専門家を育てる大学では、それぞれの分野ごとに倫理教育を行うことが 社会から要望されているのである。

 専門職には専門職固有の倫理というものがある。 例えば弁護士は、依頼者を疑っている場合でも、 依頼者の弁護に全力を尽くす義務がある。 このような職業倫理は普通の人々の倫理観 すなわち普遍倫理に反しているかのように見えるときがある。 裁判の様子を見て、 「なんであんな悪人を弁護するのか」 と弁護士に腹を立てた経験のある人もいるだろう。 しかし筋道立てて説明すれば、 専門家が専門職固有の倫理を守ることのほうが社会全体にとって好ましいことは、 公衆も理解する。 ここで大切なのは、 専門職固有の倫理はどのようなものかを公衆に明示することである。

3.技術倫理の必要性

 最近、技術関係のトラブルが多発し、技術者のモラルへの不信を招いている。 技術者は「技術馬鹿」になりがちであり、 市民としての良識に欠けるとさえいう人もいる。 技術者といえども、まずは良識ある市民でなければならないことはいうまでもない。 技術者を目指す学生も初等教育で道徳を学んできているはずである。 しかしそれで十分だろうか。 専門家としての技術者は、技術者としての倫理を身に付けるべきではないか。

 技術者の職業倫理は普遍倫理とほとんど変わらず、 技術倫理などと改めて書き記すほどのものではないように思われるかもしれない。 しかしそうではない。 例えば製品の欠陥は技術者だからこそ発見できるものである。 欠陥を発見したときどう振舞うべきか、指針となるのが技術倫理である。 「公衆に迷惑を掛けないよう最大限の努力を払う」というのは簡単である。 しかし技術者は普通、雇われの身であり、上司の命令に従うことを強要される。 心ならずも公衆に迷惑を掛ける結果を招くこともありうる。 それを防ぐためにも、技術倫理を身につけることが必要なのである。

 雇われの身にとっては技術倫理より経営倫理をしっかりしてくれ といいたいこともあろう。 しかし技術者とし てはまず技術倫理 である。 技術倫理は犠牲的行為の強要ではない。 倫理的行動は自らの身を守るためにも必要なものである。 自分勝手な倫理的行動をしてもだれも誉めてはくれない。

 技術者といっても、 土木技術や機械技術、情報処理技術などいろいろな分野の技術者がおり、 分野ごとに守るべき倫理も多少異なる。 そこで分野ごとの技術者が集まる組織である 土木学会、機械学会、情報処理学会などでは それぞれ倫理規程を定め、会員に遵守を呼びかけている。 また土木技術者も建設会社に勤める者ばかりでなく、 国や地方自治体、電力会社等々、様々なところに勤務する者がいる。 守るべき倫理は勤務先によっても若干異なってくる。 勤務する組織は組織で倫理規程を定めていることが多い。 技術者は関係する倫理規程を読み、自分自身の職業倫理を確立すべきである。

 このように書くと、 技術倫理学習とは倫理規程を丸暗記することだと誤解されるかもしれないが、 そうではない。 倫理規程は教条主義的に守れるものではない。 複数の条項を同時には守りえない状況もありうるだろうし、 仕事の円滑な遂行のためには条項をひたすら守るだけでなく、 応用が大切である。 倫理学習とは型にはめることではなく、 状況に応じてよりよい対処手段を考える力を養うことである。 それをこれから説明する。

4.予防倫理学習とは

 人は誰しも倫理観を身につけている。 倫理教育不要説の根拠はそこにある。 しかし一定の倫理観を有しているということと、その倫理観を体現することとは 同じことではない。

 専門職に就いている者なら、 誰しもその専門職に必要な倫理 について仕事 を通じて学んでいる。 しかし、どのような行動が最も倫理的かが明快な状況ばかりとは限らない。 追い詰められた極限状況では人は誤った判断を下し、 倫理に反する行動をとりかねない。 予防倫理学習とは、 それを防止するために時間的余裕のあるときに判断が難しい事例を分析し、 どのように対処するのが倫理的かじっくり考えておくことである。 この訓練をしておけば、いざというときに誤った判断をする恐れは少なくなる。 これから述べるのは、その「予防倫理学習のすすめ」である。

 技術者が遭遇する状況は、医者や弁護士など他の専門家の遭遇する状況とは異なる。 技術者は技術者としての倫理の訓練を受けるべきなのである。 そのような訓練は、 極限状況に置かれたときに過ちを犯す可能性を減らすことができる。 訓練には事例が用いられる。 この講義が目指すのは予防倫理学習である。

II.技術倫理をめぐる最近の情勢

1.技術者の国際資格と技術倫理

 本論に入る前に、技術倫理をめぐる最近の動きを説明しておこう。 2000年から APECエンジニア の登録が始まった。 我が国には 技術士という資格制度 があり、諸外国にも同じような制度がある。 APEC諸国でダムなどの設計・建設を行うには、その国の資格が必要となる。 APECエンジニアの資格を持っている者は それを国内資格と同等と認めようというもので、 土木・建築の分野から多くの技術分野へ広がろうとしている。 このAPECエンジニアの資格要件として、技術力そのものの他に、 管理能力や関係者との意思疎通能力と並んで、技術倫理が必須とされている。 この影響だけではないが、2000年に改正された技術士法でも 「公共の安全、環境の保全その他の公益を害することのないよう 努めなければならない」の一文が入り、 技術倫理を身につけることを要求するようになった。

 大学のカリキュラムもこの影響を受けている。 1999年に発足した 日本技術者教育認定機構 (JABEE) は、 工学部の学科の教育プログラムが社会の要求水準を満足しているか、 評価・認定する機関で、 認定を受けた学科の卒業生は技術士の第一次試験が免除される。 認定基準には 「教育目標の一つとして技術倫理が設定されていること」が明記されている。 「工学部では倫理教育など不要」などといっていられる状況ではなくなってきている。

2.学協会の倫理規程

 技術者の守るべき倫理は分野ごとに若干異なってくる。 このことから、各学協会での倫理規程の策定 がここ数年で急速に進 んだ。 これも技術士資格としての倫理の要求と関連がある。 ここで専門分野別に倫理規程を持つ意義 をもう一度整理してみよう。

 第一に、技術者集団と公衆との関係の良好化に役立つ。 公衆にとって技術者集団というものは必ずしも分かりやすいものではない。 「独自の価値観に従い、地球を破壊する技術をすら開発する悪魔的な集団」 という誤解が生まれることすらありうる。 あたりまえのことでも書き記すことで、 技術者集団の感覚が異常なものでないことを示すことには最低限なる。 まして「他人の知的所有権を侵害してはならない」のように 「情報の公開」などと対立する条項、 状況によっては公衆が理解しにくい条項ほど、 公衆へのきちんとした説明が必要であり、明文化は大切である。 第二は技術者自身が倫理的に振舞うのに役立つ。 その状況のもとではどう振舞うべきかを理解していないようでは 倫理的であることは難しい。 この目的のためには、 明文化された技術倫理は短いきれいごとだけであってはならない。 できれば事例まで示されていることが望まれる。 相反する条項のどちらを優先するか、 ある条項を守れないことによる問題を最小限に止めるには どのような対処手段があるのか、成功事例、失敗事例も示せれば理想的である。 第三に、 技術倫理を守れないような極限状況に追い込まれるのを未然に防止することにも 役立つ。 明文化された技術倫理を上司に示して、 上司の圧力を撥ね退けるのにも使えるであろう。 所属する組織を点検する資料とし、 技術者倫理に反する行為をしなければならないような状況の発生を少なくするよう、 組織を変革していくのにも使える。

 日本人には不言実行こそが最良という考えが根強い。 しかし自分で考えたことでも、外に向かって宣言すると より強く記憶に定着する。 他人となると、これはその人が何を考えているかなど、 言われなければ分かるわけがない。 宣言されてはじめて理解できるのである。 技術者も自分の倫理観をもっと表現しなければならない。 世界的には、倫理観を宣誓しようとすらしない技術者は 信用できない者とみなされる。 恥ずかしいから言わないなどというのは論外である。

 どうにでも解釈できる玉虫色の倫理規程などは何の役にも立たない。 かつて米国医師会の倫理規程では 「医療行為における性的非行は 患者が医師に抱く信頼を裏切るもので非倫理的である」とだけ定めていた。 妥当な条文のように思われるかもしれないが、 実はこの条文だけでは意味をなさない。 これでは誰しも「自分の行為は愛に基づくもので非行ではない」 と身勝手な解釈をする。 現在では「医師と患者という関係になると同時に起きる性的接触は 性的非行である」という条文が追加されている。 ごくまれには純粋に愛による関係というのもあろう。 それは例外的なものと認識した上で、 他人にもきちんと説明できるようでなければならない。 米国ではこのように 徹底的に考える。 日本人は倫理の問題を徹底的に議論しようとする姿勢に欠けていたようであるが、 ようやくそれが改まりつつある。

3.国や企業の対応

 技術者倫理というより従業員倫理かもしれないが、 倫理規程に関する国や企業の対応にも触れておく。 多くの国家公務員の不祥事を受け、 国は「国家公務員倫理法」を制定し「国家公務員倫理規程」を定めた。 自ら宣言する倫理規程というより他人から与えられたという色彩が強く、 倫理規程というより法そのものだとの批判もある。 しかし国家公務員倫理審査会では地道に事例集を編集しており、 何が問題なのかがわかりやすくなってきている。 倫理に関わる問題を書いたもので整理し、 どこで善悪の線引きをするかなどを公の形で議論することはよいことである。 それが自分の感覚と異なるというのなら、各自その旨の意見表明をすればいい。 倫理については合意形成プロセスが大切であり、 この仕組みをその目的にも使っていくことが望まれる。

 民間企業でも倫理を重要視するようになってきている。 例えば製薬会社エーザイはコンプライアンス・プログラムと称して、 法と倫理を遵守したビジネス活動を推進しようとしている。 そのきっかけは 反トラスト法に触れる企業の一つということで 米国司法省と司法取引をすることとなり、実際に損失をこうむった上、 企業イメージも傷ついたことである。 社員が「これは不正行為ではないか」と疑問に感じたときのために、 上司等に知られずに相談できる窓口を開設している。 食品業界の不祥事が続く今の日本は 「倫理を守らない企業は大損害をこうむるだけでなく消えざるをえない」 という正論がようやく理解されるようになっている。 好ましい傾向である。 エーザイが社員に自問を呼びかけている内容は日本人向きに よくこなれていると思うので紹介しておく。

4.大学が抱える問題

 情報技術の発達により、 誰しもが容易に世界に向けて情報を発信できるようになった。 それは好ましいことであるが、 大学では学生が無意識のうちに罪を犯す可能性が生じてきている。 「実行する前に、結果についてちょっとでも想像力を働かせてくれたら」 という嘆きが聞こえてくる。 技術倫理を教えるというと、その問題のことかと誤解する人もいるくらいである。 事例を示しておくので、各自考えていただきたい。

ある日、大宮工学部長のところにシステム工学科の夏目教授が相談にきた。 相談内容はシステム工学専攻修士2年の山根君についてであった。
山根君は優秀な学生で、夏目教授の研究室のネットワーク管理者を任されていた。 夏目研究室の修士2年の学生の一人に町田さんという女子学生がいる。 夏目研究室の学生は皆、ホームページを開いている。 ただ町田さんはホームページを開いていなかった。 山根君はいたずら心から、勝手に町田さんのホームページを作ってしまった。 しかも、「毎日毎日、研究ばかりで、気が滅入っています。 誰か私と面白いことをしない--?!」 という文章と顔写真、メールアドレス入りである。 次の日町田さんは大変なショックを受けた。 全く知らない人たちから20通以上ものメールが届いたのである。 しかもそのいくつかには猥褻な写真も添付されていた。 理由はすぐにわかった。 そこで町田さんは夏目教授に相談した。 送られてきたメールの中には、「実はあなたの住所も電話番号も知っています。 今度是非会ってください。」などという気になるものの混じっていたからである。
夏目教授はなるべくことを丸くを収めようとした。 ことが大きくなると山根君の将来に影響すると考えたからである。 とりあえず様子をみることにして二人を帰した。 次の日、町田さんは父親と一緒に夏目教授室を訪ねてきた。 町田さんの自宅にもいたずら電話があったとのことである。 町田さんの父親はきちんとした処置を依頼して帰った。 そこで夏目教授は工学部長に相談しにきたのである。
夏目教授の意見は、山根君の将来を第一に考え寛大な処置をというものである。 しかしなにより町田さんの安全確保が優先されなければならない。 警察にゆだねるところはゆだねるべきである。 また山根君に悪意はなかったにせよ、 大学としてもきちんとした処分を考えるべきだとも思う。
大宮工学部長は湯川事務部長を呼んだ。 この問題について、警察や大学本部との折衝役を引き受けてもらうためである。 さて、どうしたものか。 ただでさえ忙しいのに、こんなことをやっていられるかと思う大宮工学部長であった。

III.技術者の責任

1.責任のレベル

 技術者の責任について考えるにあたり、 抽象的なことばかり述べてもわかりにくいので、 まずは次の事例を読んでいただきたい。

AAケミカルの秋田工場で大量の苛性ソーダが下水に流れ出し、 下流の川では多くの魚が浮き上がった。 原因は村田主任のバルブの閉め忘れであることが分かった。 村田主任はその朝、バルブを開けて苛性ソーダを可搬容器に移そうとしたが、 タンクが空であったため苛性ソーダは出てこなかった。 その後、プラントの移送ポンプが作動し、 タンクに貯まるはずの苛性ソーダが流出してしまったのである。 不幸なことにそのタンクはオペレータルームの死角にあり、 苛性ソーダの流出にオペレータが気づくまでに長時間かかってしまった。 過失責任は100%村田主任にある。 これで原因究明を終わらせていいだろうか。
徳山課長は秋田工場に配転になった3年前のことを思い出した。 徳山課長はそのプラントを掌握すべく、細かいところまで見て回った。 また、そのプラントの運転管理の方法についても詳しく勉強した。 前任地の大阪工場では問題となったようなバルブは、 スイッチを押している間だけ開いているものが使われていた。 スイッチを離してしまうとバネの働きでバルブは自動的に閉まる。 「人はバルブを閉め忘れるというミスを犯すものだ」という思想のもとに、 そのようなバルブが使われていたのである。 「なぜ秋田でも同じようなバルブを使用しないのか」 と所長に提案するつもりであった。 しかしそのときはちょうどコスト削減のための全社的運動が実施されており、 タイミングが悪いと徳山課長は考えた。 機会をみて提案しようと思っていて、今まで忘れていたのである。 「責任の一端は私にもある」と考える徳山課長であった。

 責任には軽重がある。 過失で人を傷つけるより、故意に傷つけるほうが罪は重い。 法律もそうなっている。 しかし過失であっても罪は罪であり、その行為を為した者は責任をとらなければ ならない。 では、責任のレベルの物差しは故意か過失かという 1次元的なものだろうか。 過失であったとしても 「決められた手順を守らなかった」という明確な違反があるなら、 当然その責任をとらなければならない。 しかし違反がなくても責任がないとは言えない。 誰が考えても予見できる事故を回避しなかった場合は明らかに責任がある。 現代は、違反の有無という最低限の責任を問う時代から 合理的注意責任を問う時代に変わりつつある。 行為そのものが問題にされるのではなく、結果責任を問われたり、 さらには行為にあたっての態度・姿勢が問題とされるようになりつつある。

 罪ということを離れるなら、 人はそもそも悪いことさえしなければいいのではなく、 悪事がなされることを防ぐこと、さらには善をなすことを心掛けるべきである。 事故の原因追求において、原因がいくつか見つかったとき、 賠償の額を決める際には過失相殺という考え方を導入される。 しかし倫理においては、過失相殺という考え方は不要である。 責任の総和を有限とし与えられた責任だけを果たすのではなく、 自分から責任範囲を広げる姿勢が大切で、 その意味では責任の総和は無限大なのである。

 法律は多くの場合、低いレベルの責任を問い、罰を決める。 悪事は罰せられるが善行をしなかったからといって罰せられることはない。 しかしモラルを考えるとき、人はより高いレベルの責任遂行を目指さねばならない。 現代社会において専門家はモラル理想の実現に尽くさねばならない。

 公害事件などでは、 裁判で裁かれる者以外にも倫理面では責任がある技術者がいることが多い。 「担当ではなかったから発言しなかった」ことは、 法的責任は問われないかもしれないが、倫理的責任はある。 悪を為したのではないが、悪を防がなかった、 あるいは善を為さなかった責任である。 下図は責任のレベルについてまとめたものである。 なお、「正直さ」ということについても同様にいろいろなレベル がある。


2.倫理と法

 複雑な現代社会では、物事を円滑に進めるために法律を始め多くのきまりがある。 日常生活のすべての行為について、その影響はどのようなものであり、 それが倫理的に問題ないかを問うていては大変なので、 我々はきまりに従って行動するのに慣れている。 きまりを守ることが普通は倫理的態度につながる。 では、これらはどういう関係にあるのか、整理してみよう。

 我々は常識に従って行動している。 常識とは誰もが普遍的に共有しているものであり、 必ずしも全部を書き表すことはできない。 常識の中には善悪の区別、いわゆる「モラル」も含まれる。 常識を文章などに書き表したのが「きまり」である。 モラルを自主的に明文化したものが倫理規程で、これもきまりに含まれる。 多くのきまりのうち、公権力による強制を伴うものを法律という。 法律に実体法と手続法があるように、 きまりにも本質的なものと手続的なものがあるが、 モラルは最も本質的なものである。 なお前にも述べたように、「倫理」という用語は、 モラルよりは明文化できるものととして使われることが多い。

 法律を守りさえすれば倫理的というのは明らかに間違っている。 第一に、法による制裁は人の権利を制限するものであり、 不当な侵害が起きないよう適用は厳格に規定されている。 誰が見ても問題ある行為でも法的には問題ないということが生じる。 第二に、厳しすぎる法はその網をうまく逃れようとする行為を生む。 人々の倫理を高めるのとは反対方向の作用をすることもある。 第三に、法律による償いは財産の被害ならともかく、 生命・健康への被害に対しては償いにならない場合がほとんどである。 失われた生命はいくら補償金を積まれても戻らない。 倫理的行動は被害の予防にも役立つ。 以上三つの理由で、倫理は法を補完するものであるといえる。

 もっと激しいことをいうなら、 法律を含め決まりに従うことが常に倫理的に正しいとは限らない。 法律に欠陥があるとき は、法律に反しても適切な行動をとるべきである。 ただしそれにより生じる法的責任は自分でとらねばならない。

3.倫理と支援技術・制度

 AAケミカルの例に戻ろう。 技術による災害の防止は担当技術者の高いモラルだけで達成できるものではない。 技術者も人間である以上、過失を犯す。 技術的に人間を支援することで過失の発生を低く抑えることはもちろん大切である。 また、管理制度の整備も必要である。 教育訓練な どを導入することはもちろん、その効果を調べ制度を改善していかねばならない。 それでも100%の安全は不可能であるが、十分安全にはできる。

 しかし技術を用いるのは人間であり、 そのモラル意識が低くては災害の発生は防げない。 支援技術の適切な採用や管理制度の整備を行うのは人間である。 技術者の独り善がりは、大きな災害には至らないものの、 不祥事を引き起こし、人々を不安にすることはしばしばある。 技術者は常識すなわち社会性を身に付け、振舞わなければならない。

 技術倫理と支援技術・制度、そして法律は下図に示すように互いに補完しあうものである。 技術倫理を強調することは技術や制度、法律を軽視せよということではないことは言うまでもない。


4.変化する倫理観と説明責任

 人々の倫理観は時代とともに変化している。 奴隷制度が存在していた時代でも人々はもちろん倫理観を身につけていた。 それでいて奴隷制度を認めていたのは、 奴隷を自らと同等の権利を有する人間とはみなしていなかったからである。 同等の権利を有する者への倫理観は現代のそれとほとんど変わらないことには 驚かされるほどである。

 職業倫理も時代とともに変化している。 変化の方向はいろいろであるが、注目すべきものに 「環境問題への配慮」と「説明責任の重視」がある。 前者については省略するが、後者について少し補足する。

 パターナリズムという言葉がある。 父親的温情主義などと訳される。 「告知したら患者は耐えられないだろうから告知しない」 というのがその例である。 パターナリズムは、専門家が相手のためと考えてその相手の権利、 たとえば知る権利を奪うものである。 ここで「相手のため」と考えるのは 専門家本人だけであるということに注意しなければならない。 職業倫理として、このパターナリズムは急速に認められないものとなりつつある。 パターナリズムはすべてだめいうのではない。 しかし、それを採用した専門家には説明責任が生じる という点は広く合意されてきている。 相手が知ったときのその相手への説明だけでなく、 誰に対しても合理的説明ができなければならない。 専門家と非専門家とではその分野について持っている知識の量が異なるだけで、 上下関係にあるわけではない。 説明できない行為には倫理上の問題がある。 これがインフォームドコンセントの概念が急速に確立した背景である。

 相手を思いやって知る権利を奪うことすら問題であるので、 「どうせ理解できないだろうから」と知らせる努力を怠ることは論外である。 なお、知識の押し売りであってもならない。 非専門家が知りたくなったときにはいつでも学べるように用意しておくことである。 これを説明責任(アカウンタビリティ) と呼ぶが、技術倫理で も重要な点である。

IV.倫理問題事例への取り組み方

1.グループ討論の奨め

 どのように行動するのが倫理的か、悩ましい問題を倫理問題事例と呼ぼう。 自分なら倫理問題事例をどう解決するか、 これを考えるのが予防倫理学習である。 要するに、過去の実例や仮想事例を使ってトレーニングし、 追い込まれた状況でも誤った判断をしないだけの力をつけておこうとするものである。 予防倫理学習は形にとらわれる必要はない。 興味を持った事例を題材に、自由な観点から取り組めばよい。 ただ、できればグループ討論をしていただきたい。 理由は次の通りである。 難しい倫理問題事例では対処法について様々な意見が出て当然である。 そのどれが最も倫理的な対処法か、決められない場合が多い。 いろいろな対処法があるということを知ること自体が勉強になる。 自分が思いつくことのできなかった対処法を聞いて感心することもあろう。 自分とは違う価値観の人がいるということを知ることも大切である。 究極の答え・唯一無二の正解がないことも自然と学ぶことになろう。 最大の効果は、多分「独り善がりではいけないこと」を 知ることになることである。

2.問題検討の流れ

 「予防倫理学習は形にとらわれる必要はない」とは書いたが、 グループ討論で漫然と意見をぶつけあっても噛み合わないだろう。 そのような場合は次のような流れで検討を進めるとよい。

 過去の実例などを用いて予防倫理学習をするときは、 調査の結果判明した事実に「倫理問題とは無関係な事実」が 多く含まれていることに注意しなければならない。 ある行為の倫理的善悪を判断する際には、 背景事情はできるだけ切り捨てて考えるべきである。 例えばある学生の行為が倫 理的に許されるかどうかの判定では、 その学生の学業が優秀か否かを考慮してはならない。

 その問題が本当にモラルの問題なのか、事実認識の違いなのかを はっきりさせることも大切である。 これについてはV.2.で詳しく述べるが、不要な情報は切り捨てた上で 問題がどこにあるかをはっきりさせる、すなわち「問題の明確化」が 検討の第一歩である。

 倫理問題事例の多くは「線引き問題」か「相反問題」のいずれかに 分類できる。 これについてはV.3.やVI.で述べるが、普通はこの問題分類が次のステップとなろう。 問題に対し評論する立場であるなら、検討はここまででいいのかもしれない。 しかし予防倫理学習としては不十分で、さらに次のステップへ進まなければならない。

 予防倫理学習では「もし自分が当事者の立場だったとしたらどのように振舞うか」 を考えることが最も大切である。 想像力を発揮して、いろいろな対処手段を考えてほしい。 想像力についてはV.1.で述べる。 この対処手段創出の能力を身に付けておくことこそが、 将来追い詰められた状況に立たされたときに活きてくるのである。 なお対処手段創出についてはVI.で述べることが参考となろう。

 単に多くの対処手段をあげるだけであってはならない。 最後にそれらの評価をしていただきたい。 VI.1.で述べる線引き問題への決疑論の適用も一つの評価方法である。 それだけではなく、多様な価値観の存在を認め、異なる価値観で眺めたとしても 許容される手段かの評価もすべきである。 これについてはVII.で述べる。

 以上、問題検討の流れを図示すると次のようになる。

問題の明確化
問題の分類
想像力の発揮→対処手段創出
対処手段の評価

3.これまでのレポートの感想

 これまで3年間、「社会のための技術」という科目で グループ討論の結果を聞かせてもらい、一番多くのものを得たのは私だろう。 歳をとって経験を積むと、ややもするとずるい立ち回り方ばかりを考えてしまう。 学生の若い感性を発揮した、本質をついた検討結果には、 ただただ感心させられた。 したがって私ができるアドバイスは大してないが、2つだけ書いておく。

 どのような倫理問題も、追い詰められた状況に至る前に対策をとっておけば 容易に避けられる。 企業内の体制のあり方に関する提言など、 当事者に知らせたくなるようなすばらしいものが多かった。 それはそれで高く評価する。 皆さんが社会を引っ張る時代がくれば日本も良くなると確信した。 ただ、追い詰められてしまった後の対処手段については、 なかなかすばらしいレポートに出会えないでいる。 自らの責任でなくても、追い詰められた状況に陥ることはありうる。 そうなってしまった後はどうしたらいいか、それについても もっと考えてもらえたらと思う。

 「いざというときは内部告発する勇気を持つ」というレポートも多かった。 しかし「倫理的に振舞うこと」と「勇気を持つこと」は関係はあるものの、 同じではないことに注意してほしい。 「倫理に反した行為をしている人は勇気がないのだ」、 などと短絡的に考えてもらいたくない。 実行に移す勇気も大切だが、 どのような対処手段が最も倫理的か見極める能力はそれ以上に大切なのである。 内部告発が最良の手段なら内部告発する勇気を持ってもらいたい。 しかし本当に内部告発が最良か、もっと見極める努力をしてから 結論を導いてほしい。

V.倫理問題事例解決に必要な能力

技術者が倫理的に振舞うために身に付けているべきものは何だと思われるだろうか。 正義感?勇気?正直さ? それも必要かもしれない。 しかしある意味ではもっと 大切なものがある。

1.倫理的想像力

 まずは一つの事例を見ていただこう。

飯田興業は化学プラントのポンプのオーバーホールが専業の 二次下請け企業である。 東海出張所は親会社の東海工場内に付設されており、 岡本氏はその所長である。 出張所には3つのグループがある。 各グループは 10年以上の実務経験および親会社の資格試験に合格した作業責任者と 4~6人の作業員とで構成される。 岡本所長も含め3人の作業責任者のうち、 金沢さんはあと2~3年で定年を迎える。 その後任として杉井君を作業責任者補佐として育成しつつあった。 杉井君は技能的には作業責任者の水準に達しており、 来春の資格試験に合格すれば作業責任者に昇格する。
定期点検の終了間際になって金沢さんが風邪をこじらせ、 休まないと肺炎の恐れがあることがわかった。 作業責任者は元請けを通して親会社の承認を受けている。 そしてポンプの点検には必ず作業責任者の立会いが要求されている。 飯田興業本社に相談してみたが、他の出張所でも作業責任者クラスは忙しく、 急には応援できないないと断られた。 その上、 そんなことも処置できないようでは所長としての適性に欠けると叱られた。 昨今は受注競争が厳しく、今回の作業も 「体制に不安があるのではないか」 との親会社の指摘を受けつつようやく受注したという経緯がある。 今さら元請けや親会社に相談できるとは思えない。 岡本所長は自らの責任で金沢さんが復帰するまでの3~4日の間、 技能的には問題ない杉井君に、 親会社や元請けには内緒で作業責任者の代役を務めてもらうことに腹を決めた。

 これを読んで岡本所長の立場になってほしい。 その上で、自分ならどうするか真剣に考えてほしい。 「自分ならどうするか」その答えを見つけるのに必要なのは想像力である。 どんな対処法がありうるか、 なるべく多くの方法を思いつくのに必要なのが想像力であるとともに、 その対処法がどのような結果を招くか考えるのにも想像力が要る。 想像力を身につけるには訓練すればよい。 なお、米国では例えば オンライン科学技術倫理センターのホームページ にアクセスすると、たくさんの練習問題が載っていて自習できるようになっている。 我が国もそのようなものの整備を考えるときであろう。 そ こに掲載されている事例の翻訳 だけは科学技術倫理オンラインセンターがやっているが 日本人向けの教材として適切かちょっと疑問がある。 東京大学工学部システム創成学科4年生の松江寿記君の作った教材この事例集 などは日本人向け、学生向けの教材作りへ向けての第一歩だと考えている。

2.争点の認識力

 ある人の行動がモラルに反していると感じるとき、 そう指摘する前にそれが本当にその人のモラルの問題なのか 慎重に見極めなければならない。 「あの人は所詮モラルのない人だから」 と決めつけてかかることは問題をこじらすだけである。 意見の食い違いを相手のモラル欠如のせいにせず、 争点をはっきりさせる能力を身につけなければならない。 一見モラルの問題に見える事例も、事実認識の不一致、概念認識の不一致、 あるルールを現実に適用しようとする際生じる不一致、 といった意見の不一致である場合が多い。

 事実認識の不一致 とはまさに事実関係に関 する見解の不一致である。 「汚染物質を排出している」という記事を読むと、 モラルに欠けた行為だと決めつけたくなる。 しかし排出量が法令で定められた許容基準以下であり、 それは公衆の健康に影響しないことが科学的に証明されているなら、 問題は非難する側にある。 技術者は科学的事実を尊重することが大切である。 科学的事実を自分自身のものとして正しく理解し、 技術の細かい点までは理解できない人にもわかりやすく説明する義務を負っている。 相手の事実認識に問題があるときは、それが汚染物質を排出する側の人だろうと、 排出を非難する側の人だろうと、きちんと指摘しなければならない。 事実認識の誤りなら、認識を改めてもらえば問題は解決する。 間違っても 「所詮あいつはモラルがない」 などと問題をモラル観にすりかえて切り捨ててはならない。

 なお、悩ましいのは明確な答えがない事実関係である。 例えば「ダム建設は有益か」 といった問題である。 現実に直面する問題は、科学的には完全な答えのない問題、 現時点では不確定要素が多すぎる問題のほうが多いくらいである。 それでもできるだけ科学的に考える姿勢を崩してはならない。

 概念認識の不一致 とは使っている用 語の定義の不一致といい換えてもよい。 「公平」とは何か、「公正」とは何か、 わかっているようで曖昧なまま使っている言葉は多い。 古くからの問題に「どこまで安全なら安全といえるか」というものがある。 周辺住民の癌の発生確率が1%増える濃度の汚染物質の排出は許されないとして、 その100分の1ならどうか、1万分の1ならどうか、 その認識を同一にしないでの議論は往々に不毛である。

 ただ、技術者が心しなければならないことに、 科学知識の押しつけは問題をこじらすということがある。 「安全」はある程度まで数学的な分析のできる科学の対象である。 しかし人が「安全」をいうとき、それには「安心」の意味も含まれていることが多い。 「安心」もそれで社会科学の対象かもしれないが、 知識の伝達だけで得られるものではない。

 話が少しそれたが、 概念認識の不一致をモラル観の問題にすりかえるのが問題をこじらすことは ご理解いただけよう。

 ルールの適用に際して生じる不一致 というのも常にある。 事実関係をはっきりさせ、概念を統一し、 どういう場合はどう対処するかのルールをはっきり決めたとしても、 不一致が生じることはある。 背景にある事情は様々である。 これは例外としたいというものが必ず出てくる。 ルールを教条主義的に適用するのが常に正しいとは限らない。 不一致は不一致としてはっきりさせることが大切で、 不一致をモラルの問題にすりかえてはならない。

 なお、現実に生じる技術倫理の絡んだ問題は、 背景に複雑な事情が存在しているのが普通である。 ある行為の倫理的善悪を判断する際には、 背景事情はできるだけ切り捨てて考えるべきである。 一方、直面している困難への対処法を考えるにあたっては、背景事情にも十分配慮し、 広い目であらゆる方法を探すように努力しなければならない。

3.分析・評価能力

 倫理問題事例を解くにあたり漠然と考えるのではだめで、 考えついた対処法についてきちんとした分析や評価をしなければならない。 これは技術的問題とまったく同じである。 ではどのように分析・評価すればいいのか。 どんな場合にも万能な方法というのは存在しない。 しかし多くの場合に有用な方法というのはある。

 第一にすべきことに、問題の分類がある。 多くの倫理問題事例は線引き問題か相反問題かのどちらかとなる。 第二に、問題の種類によって対処法の創出の仕方が変わってくる。 それを念頭におきながら分析を進めていくとよい。 これについては、VI.で詳しく述べる。

 自らの判断では倫理的に問題ないといえる対処法が創出されたら、 あとは実行に移せばよい。 ただその対処法も、 価値観の異なる人からは最良とは見られないことを知っていなければならない。 様々な価値観をここですべて取り上げることはできないが、 公共の福祉とは何かという問題に絡んでよく現れる二つの価値観、 功利主義と個人尊重主義についてVII.で説明する。 対処法の評価が価値観によって異なってくる場合には、 他の価値観での評価はどうなるか確認しておくことが望まれる。

4.責任感覚とモラルの障害の認識

 モラルに反する行動を避けるために一番重要なのは、 当事者としての責任感覚である。 「自分だけの責任ではない」とか「誰かが何とかしてくれるだろう」 と考えるようではいけない。 したがって予防倫理学習の問題に取り組むにあたっても、 あくまでも自分ならどうするかの答えを見つけ出さねばならない。 登場人物の欠点の指摘に終始するのでは何にもならない。

 予防倫理学習では、 追い込まれた状況に至る前に打つべき対策を思いつくこともあろう。 それはそれで貴重な指摘である。 ただ、評論家としてそのような指摘をするのではなく、 日々の行動の中でそれを生かすようにすることが大切である。

 人がモラルに反する行動をとるときは 次のような障害に陥っていることが多いとされる。 このようなリストに照らし合わせて、 自分はこのどれかの障害に陥っていないか自省することは、 モラルに反する行動を予防する上で効果があると思う。 詳しくは解説記事を読んでいただきたい。

利己主義
自分だけ得したいと考える
自己欺瞞
いい訳を信じ込んで自らを偽る
意志薄弱
正義を実行する勇気に欠ける
無 知  
知らないために判断を誤る
自分本位
誰もが自分と同じように考えると思う
狭い視野
一面だけを見て他のことを忘れる
権威追従
権威者にすがり自らの判断を放棄する
集団思考
集団への忠誠を第一に考えてしまう

5.曖昧さの許容と根気

 技術者は往々にして割り切れない問題が嫌いである。 倫理問題事例は唯一絶対的な解があるわけではない。 解の優劣が必ずつくわけでもなく、 問題設定の外側にある事情にも解が影響されるなど境界条件も明確なわけではない。 しかし真理の探究だけを 目指す科学者ならともかく、 技術者は日常このような問題に取り組んでいるはずである。 設計がまさにそれである。 設計ではある目的を達成する方法が一つということはまれである。 Aの方法もあればBの方法もある。 優劣をつけがたいこともある。 設計者はその中で最適と思われる判断をし、製品を形作っていく。 最終的設計が目標を満たさないときは、一度選択した方法を変えることもある。 倫理問題事例への取り組みもまったく同じである。 技術者は最良と考えられる対処法を見つけ、実施していかねばならない。 もっといい対処法はないか、考えつづけなければならない点も設計と同じである。 まず事実関係をはっきりさせること、なるべく複数の対処法を考え比較すること、 事態の変化に柔軟に対応できるようにしておくことなど、設計との類似点は多い。

6.例題

 次の事例を読み、どこに問題があるか考えていただきたい。

MK製作所は中堅のプラントメーカーである。 この会社の各セクションで必要な工具は次の手順で入手することになっている。
まず各セクションからどのような工具が必要かという情報を設計部へ上げる。 設計部は工具を設計し、図面と仕様書を作成する。 図面と仕様書は購買部に送られる。 購買部では購入品の種類ごとに取引業者を決めている。 その中から最低3社を選び、入札する。 必要な工具は最も良い条件を示した業者に発注される。
MK製作所には社内にも開発部に試作室がある。 ここは細かな試作品を製作するだけでなく、 社外から購入した工具の改造や修繕も担当している。 中田氏は試作室長に就任してから試作室の業務拡大を目指している。 ようやく提案が認められ、購買部への入札に参加することが許された。
中田室長は購買部へ出向き、担当の吉川係長に頼み込んだ。 「これから見積書を書かなければならないので、 参考までに他社がどのような条件を提示しているか今回だけは教えてくれないか。 試作室が成長できるかどうかの瀬戸際なのだ。 試作室が成長することはMK製作所みんなのためなのだ。」

 この程度の問題ならグループ討論をしなくても結論を導けることを期待する。

VI.倫理問題事例の分類と対処法の発見方法

1.線引き問題と決疑論

 前にも述べたように、倫理問題事例の多くは線引き問題か相反問題である。 まず線引き問題から説明しよう。

 うるさいことをいえば倫理上問題ある行為でも、ある程度までは許容される。 友人の鉛筆をちょっと無断拝借して使用することは、窃盗行為だといえなくもない。 しかしそれを一々咎めていたのでは社会システムはうまく動いていかない。 細かいことまで厳罰主義で臨むと、社会生活は非効率なものとなる。 お互い様ということもある。 「ある程度のことまでは目くじらを立てない」 という暗黙の了解が社会通念としてできあがっている。

 線引き問題とは、どの程度の行為までは許されるか、どこからは許されないか、 境界線を引く問題である。 難しい倫理問題事例に対する対処法は、 うるさいことをいえば倫理上の問題を含んでいる場合が多い。 考えられる対処法について、それが境界線を越えていないか判断する。 その結果最も倫理的だと判断された対処法を選べば、 社会通念として許されない行為を避けることができる。 線引き問題を考えることは、モラルある生活を送る基本技術である。

 線引き問題の判定には決疑論という手法が使われる。 その方法は簡単である。 倫理的に許されるかどうか悩ましい問題があったとする。 その善悪を判断するため、似たような事例を集める。 実例でなく、頭の中で考えたものでもよい。 それを自分なりに、より許されると思うものから順に下図のように並べていく。 その最初のもの、図では一番左にくるものは、 誰もが許されると判断する典型的な事例、すなわち肯定的範例 C+となる。 最後にくるものは誰もが許しがたいと判断する否定的範例 C-である。 考えた事例に肯定的範例や否定的範例といい切れるものが入っていなければ、 極端なことを考えてそれらを追加する。 中央に並ぶ C1からC4 までは状況次第で許されたり許されなかったりする事例である。 このような列を作っておいて、悩んでいる問題がそのどの辺にくるかを調べてみる。 その左隣の事例をあなたが許しがたいと考えるなら、 あなたが悩んでいる問題も倫理上許されないと判断すべきである。


 実例をあげよう。 業者からお礼にと100万円の現金を受け取るのは明らかに許せない。 業者が年末に持ってきたカレンダーを受け取るのは、 まず誰でも許されると考えるだろう。 では業者の手土産のカステラはどうか。 昼食をおごってもらうのはどうか、 夕食をおごってもらってカラオケまでつき合うのはどうか、 各自、線引き問題に挑戦して欲しい。

 なお、このような贈り物の問題は金額だけで決まるように見えるが、そうではない。 第一に、 受け取ることが所属組織の利益にもなるなら、 所属組織に対しては許されることがある。 費用が先方の丸抱えの研修会への参加は個人的に利益供与を受けることになるが、 研修結果が仕事に役立つなら組織は個人への贈与とは見なさず、 許可することもある。 第二に、感じる恩義は金額で決まるものではない。 是非行きたいコンサートの招待券は巨額な賄賂と同罪かもしれない。 第三に、贈り物が意思決定の前か後かも重要な要素である。 第四に、間接的影響も考慮すべきである。 事務所に贈り物が積んであると、 訪問者は贈り物を持参しなければならないと考えてしまう。 個々の贈り物が許容されるものでも、これは贈り物の強要である。 最後に、外の人からどう見えるか、外観というのも大切である。 怪しまれる行為は、たとえそれが悪いことでないと説明できるにせよ、 慎むべきである。

2.相反問題と創造的中道法

 相反問題とは、あちらを立てればこちらが立たないという状況、 すなわち二律背反の状況を解決するという問題である。 約束を守ることは倫理の基本であるが、 「Aとの約束を守るとBとの約束を破ることになる」という状況に陥ることがある。 技術者として経験しそうなのは、このAが会社でBが社会一般の場合、 すなわち「社員としては会社の利益を守るべきだ」と 「市民として公衆に迷惑をかけるのは避けるべきだ」 という二つの倫理的要求の背反である。 こう書くと、社員であるより前にまず市民であるべきで、 迷わず後者を優先すべきだといわれそうである。 公衆へ迷惑がかかることがはっきりしており、 それもかなりの迷惑であるときはそのとおりである。 しかし普通はそんなに単純ではない。 迷惑がかかる可能性がわずかにあるだけかもしれない。 社員としての義務のほうが優先されるべき状況のほうがほとんどであろう。 こう考えてくると、相反問題の中に線引き問題がある。 逆に線引き問題を突きつめると相反問題になることもある。 線引き問題では決疑論が使えることは既に述べた。

 二つの倫理的要求を満たせないときは、どちらの要求が重要かをまず考える。 それが明確であるなら、重要度の低いほうを無視して差し支えないか考え、 差し支えなければ無視すればよい。 問題なのはどちらも重要なとき、 重要度の低いほうを無視することも倫理的に許されないときである。 そのときは第三の道を考える。 真中に道を作るわけで、創造的中道法と呼ばれる。 ある倫理的要求を満たす方法は一つしかないと思い込むと、 第三の道はなかなか思いつかないものだが、 技術者は物を設計する際にこのような訓練を受けているはずである。 前述した飯田興業の事例の場合でも、 「直ちに親会社に話す」か「内緒で代役を務めてもらう」 かの二者択一だと考えるのではなく、できる限り多くの対処法を検討し、 その中から最良のものを選ぶようにしなければならない。

VII.倫理問題事例の対処法の評価方法

 線引き問題や相反問題に対し倫理的に問題ない対処法が創出できるようであれば、 最低限の技術倫理は身につけたといえよう。 しかし真にモラルある技術者となるためには、 価値観には多様なものがあることを理解していなければならない。 以下では、多様な価値観の対立 のうち、技術者がよく直面する 「功利主義と個人尊重主義」という価値観の対立について考えよう。

1.功利主義と費用対効果分析

 功利主義とは最大多数の最大幸福の追求である。 「功利」というと語感はあまりよくないが、 welfare すなわち福利とか福祉と訳されるものと同じである。 対処法がいくつかあるとき、そのどれが最大多数の最大幸福につながるか、 で優劣を判定する。 数学モデルを用い、もっと定量的に対処法の優劣を算出する方法に、 費用対効果分析(cost-benefit analysis)がある。 場合によっては人の命さえもお金に換算し、優劣比較を行う。 対処法を恣意的でなく客観的に決めるのには有用な方法である。 分析結果を示すことで説明責任を果たすことにもなる。 算定モデルは数学的なものであり、技術者には理解しやすい。

 費用対効果分析ではコンピュータが解を出すため、 うっかりすると技術者はそれを絶対的なものと誤解しやすい。 しかし、そもそも功利主義の立場ですべてが割り切れると考えるのは間違いである。 それぞれの対処法に対する結果が確実なものであるならまだいい。 多くの場合、結果は不確定である。最大多数の幸福というが、 ある対処法をとったとき影響を受ける者の範囲をどこまで考えるかなど、 採用するモデルによって解は大きく変わりうることを理解しておかなければならない。

 功利主義の最大の問題は、特定個人への不公正が生じる恐れがあることである。 公共の福祉のためには個人の権利が多少制限されることもやむをえない。 それは認めざるをえないが、不当な権利の侵害が生じないようにしなければならない。

2.個人尊重主義と黄金律、権利

 個々人の主張をできるだけ尊重するという考え方もある。 だからといって一人でも反対なら何もしないというわけにはいかない。 痛みを伴う方法をとるにあたっては、 それが容認しうるかどうかのチェックが必要である。 功利主義の観点から最良とされた方法を採用するなら、 その前に個人尊重主義の立場からも容認できるか調べるべきである。

 調べる方法の一つに黄金律テストがある。 黄金律 とは「自分の望むことを人にせ よ」 あるいは「自分の望まないことを人にするな」ということであり、 キリスト教の教えとして有名であるが、 他のほとんどの宗教にも現れる普遍的教えである。 これをしようとしている行為にあてはめ、 「他人があなたに対し同じ行為をするとき、あなたはそれを容認するか」 自問するのである。 人はどうしても自分さえよければと考えがちである。 他人がしたときは憤慨するくせに自分は例外的にしてもいいと考えるのは 黄金律に反し、許されることではない。

 それはともかく、痛みを伴う方法を採用するにあたっては 「自分がその痛みを感じる立場になったとしても許容できるか」考え、 許容できないなら採用を控えて他の方法を考えるべきである。 黄金律テストでその方法が可と判定されたときでも、 自分と相手の価値観が異なる場合には問題が残っていることを忘れてはならない。 許容する程度は 人によって様々であることを認め、 できる限り相手の価値観で判断する。 要するに相手が幸せ と感じるものを尊重す ることである。

 個人の尊重とはすなわち個人の権利の尊重である。 その権利と権利がぶつかり合うとき、対処法の選定は難しくなる。 ただ、権利にもいろいろなレベルのものがある。 生命や健康に関わる権利は最優先である。 一般に現状を維持する権利は現状を改善する権利に優先する。 この場合の現状維持とは、盗まれない権利、 だまされない権利などまで含むものである。 低いレベルの権利、例えば生活環境改善の権利を振りかざして、 他人の高いレベルの権利、例えば生存権を奪ってはならない。

3.例題

 最後に例題を出そう。 解説を読む前にまず自分なりの回答を考えていただきたい。

A県では毎年予算枠の中で県道の改良工事を進めている。 堀川町の交差点は都市部にあり、1日約24,000台の車が通過する。 湯川村吉田の交差点は山村部にあり、1日約600台の車が通過する。 ここ数年、死亡事故発生件数はどちらもほぼ同じ2件である。 今年の予算ではどちらか一方しか改良できない。 どちらをまず改良すべきか。

 どちらの答えもあると思う。 堀川町と答える人は次のように考える。 湯川村吉田に比べ交通量が40倍も多い。 その分だけ改良工事の恩恵を受ける人が多い。そちらが優先である。 湯川村吉田が優先という答えもある。 そこの通過車両は主としてそこの住民である。 そこで交通量の多い都市部と同じだけの事故が発生しているということは、 住民は40倍もの危険にさらされているとするものである。 全体を見すぎると個々人の問題に目が行き届かなくなる。 しかし個人の問題に深入りしすぎると、 本来自己責任であることまで全体で面倒をみなければならなくなる。 私の意見は差し控えるので、各自で答えを考え、 価値観は多様だということを知る一助にしてもらえれば十分である。 どちらの価値観もありうるし、両者を融合した解もありえよう。 ただ、自分と異なる価値観をまったく認めないのは、明らかに非倫理的である。

あとがき

まえがきでも書いたように、本講義録は 東京大学工学部システム創成学科の講義 「社会のための技術」(3年夏学期)の内容を示すものである。 この講義の準備をしていた2000年度の冬には、 学生が簡単に読めるやさしい教科書がほとんど発行されていなかった。 またグループ討論を中心に据えることから、 私以外にも複数の先生がたに討論の指導ということでお手伝いをお願いしたので、 その先生がたに「技術倫理」 とは何かご理解いただく必要が あった。 科学技術者の倫理 その考え方と事例、 Charles E. Harris 他著、 (社)日本技術士会 訳編、丸善 は非常にいい本ではあるが、分厚いため、読んでいただくのは恐縮である。 そんなことから、「技術倫理」教育とは何か、学生にも先生がたにも 気軽に読める資料として作ったのが本講義録である。

あくまで東京大学工学部システム創成学科内での利用を前提に 作ったものであるが、意外と学外のかたにも読まれているようで、 技術倫理の普及に一役買っているのではとうれしく感じている次第である。 ただ、本講義録は私一人でこつこつと作っているものであり、 また私自身「技術倫理」の専門家などとは恥ずかしくて言えない素人である。 日本原子力学会で倫理規程を制定すること になり、 いつのまにか委員に任命され、 あわてて勉強したというのが本当のところである。 したがって本講義録には不完全なところがたくさんあると思う。 その点どうかご容赦いただきたい。

こんな講義録がなくても、技術者なら「技術倫理」とは何か良く知っているのが 当たり前な時代が来ることを祈り、あとがきとする。