価値観の対立軸

技術者の使命は、人に役立つ技術を開発し利用することである。 これについては大きな反対意見はないと思う。 ただ、何をもって「人に役立つ技術」と判断するのか、時に意見が分かれる。 それは価値観が多様なためである。

現代の功利主義、選好功利主義も 「各人が多様な価値観を持っていること」を前提に、 自らよいと信じることを追求できることこそが大切と説いている。 あらためて強調するまでもないが、 技術倫理の習得は価値観の共有を目指すものではない。 多様な価値観を認め合うことが倫理的な態度であり、 そのためには多様な価値観の存在を理解しておくことも必要である。

以下には技術を考えるとき大切だと思われる いくつかの価値観の対立軸をあげ、 それについて私自身の個人的コメントを若干加える。

功利主義と個人尊重主義

技術を生かして社会を変えていこうとするとき生じる疑問の一つが 「それは誰のためか」である。 技術者は往々に 「技術そのものは中立であり、万人に役立ちうるものである」 というが、そこで思考を停止してよいものであろうか。

技術は世の中を変えていく。 それによって恩恵を受ける人もいれば、 逆にそれまでの生活が悪いほうに変化する人も出てくる。 土木工事などは損害を受ける人が比較的特定しやすく、 工事実施にあたってその評価を実施すべきという主張に 反対する人はいないだろう。 情報技術やバイオ技術だって世の中を変える。 それでマイナスの影響を受ける者もいないわけではない。 影響を与えるのは技術そのものではなく、 利用方法だと言われるかもしれない。 しかし技術を利用するのも技術者であり、 多くの場合それに開発者自身も関わる。 技術者は常に開発中の技術がどのように世の中を変えていくかを考え、 可能ならマイナス効果もあらかじめ予測し、対策を立てるべきである。

「技術は誰のためのものか」という質問に戻ろう。 「技術は最大多数の最大幸福のためにある」というのが 功利主義の立場からの答えである。 そのことを全面否定するものではないが、 「技術によっていかなる人も不当に権利を奪われないよう 最大限の配慮をすべき」 と注文をつけるのが個人尊重主義の立場である。 この二つ価値観からなる対立軸については、すでに トップページ で考察したので、ここでは繰り返さない。 しかしこの対立軸はいかなる技術者にも関係するものであり、 常に自問すべきものであることはあらためて強調しておく。

生命の質重視か生命の尊厳か

尊厳死問題、脳死問題、クローン技術問題等は 生命倫理の主要課題であるが、 バイオ技術の進展とともに多くの技術者が 考えるべき課題ともなってきている。 そこでの価値観の対立軸の最も大きなものは 「生命の質(QOL,quality of life)重視か 生命の尊厳(SOL,sanctity of life)か」 の問である。 後者を重視する立場では、人の命はそれ自体が神聖なものであり、 その質をうんぬんすることは許しがたいことになる。 胎児の遺伝子を診断して重大な病気のある子の誕生を防ぐような技術は 障害者差別にもつながる危険性がある。 人はいかなる状態でも生ある限り同等の権利を持つものであり、 生命の質が落ちてきたとしてどこかで線を引くことはできない という主張である。 前者の生命の質を重視する立場では、その人が 「人間としての尊厳を保って生きているか」 どうかが問題であるとする。 回復の望みもないままいたずらに延命処置を図ることこそが 生命の尊厳を冒すことになるという主張になる。

この問題も基本的には線引き問題である。 「生命それ自体の尊厳は尊重しつつ、生命の質にも目を向ける」 というのが大方の人の価値観を表しているのではなかろうか。 私自身は平均的日本人よりは生命の質を重視する立場に偏っているのではないか と感じている。 脳死が人の死であり、脳死者からの臓器移植が行われることに疑問を感じない。 また回復の望みのないときの延命処置も望まない。 しかし遺伝子操作で代替臓器を培養するような技術開発には 嫌悪感を覚える。 これが平均的日本人の価値観と比較したときどのへんにあるのか、 きちんとした調査のもとに知りたいと思っている。 その結果次第では反省することもでてこよう。 価値観の統一などは決して図ってはならないが、 自分の価値観を他者のそれと比べたときの相対位置を知ることは 大切だと思う。

このような問題も事例に即して考えると理解が深まる。 参考までに ここ に1つの事例を置いておく。

自然に生存権はあるか

従来の倫理が焦点を当てていたものは基本的には「人権」であった。 人の生命の重さは他の生物のそれと明確に区別される。 区別を必要とするのは理由がある。 人以外のすべての生物に同等の権利を考えると矛盾に直面する。 生命とは他の生命を生きる糧として取り込まなければ維持できないという 宿命を背負っている。 菜食主義者といえども生ある植物を食しているのである。

なぜ人間だけに特権を与えるのか。 その答えは、モラリストとして名高いパスカルによれば 「無自覚な自然と異なり考えることができること」である。 またカントの人格主義でも、 「人間とは意志の自律を有する自由な主体・理性を持った主体であり、 他のものと置き換え不能なもの」として 尊厳を認めなければならないと説く。

しかし人間以外を無自覚と切り捨てるのは問題ではないか。 理性を尊重するなら、知的能力の劣る精神障害者の人権はどうなるのか。 人間は単に人間であるからといって賢いチンパンジーより 大きな権利を認めるのは種の差別ではないか、という疑問も出てくる。 一つの考え方に「痛みを感じる能力」への配慮がある。 不要な苦痛は避けるというのは動物愛護の基本的考え方となっている。 しかしこれも程度問題ではなかろうか。 そもそも他の生物に感情移入して「善行をした」と陶酔することは 人間の思い上がりではないか、とも感じる。 ただ、「いかなる生命に対しても畏敬の念を抱くべき」 という主張には共感する。

地球環境においては人間の活動の影響が大きくなりすぎ、 他の生命の存続が脅かされている。 空気・水・土壌・気象といった地球環境は それが人類にとって望ましいから保全するという考え方もあろう。 人類以外の生命のためにも保全するという考え方もある。 これと全く異なり、 地球全体を一つの生命体として捉え、その生存権を考えるというものもある。 ガイア仮説である。 その解説はここでは省略する。

日本人は輪廻を信じることから人類以外の生命を慈しむ感情が強いといわれる。 一方で捕鯨禁止などでは欧米流の価値観を押し付けられているとも感じている。 自然の生存権をどう考えるか、自分自身の価値観はどこにあるのか、 自問して答えを出さずして価値観の押し付けに拒絶反応を示しても始まらない。 まずは個々人が自らの価値観を明確にすべきであることをここでも強調したい。

世代を超えた責任とは

環境問題などでは後世への責任が焦点となることがある。 子孫につけを払わせるべきでないという議論である。 自分の子や孫が成長したとき苦労する環境は残したくない というのは当然の感情で、 これには種の保存本能からくるところもあるのかもしれない。

この世代を超えた責任をさらに一般化して、 何世代も後の人類に対する責任を考えるのも大切なことである。 ただ、過度にそれを主張するのはいかがなものかとも思う。 1千年前の人間が現代社会の有り様を想像できるとは思えないのと同様に、 我々が1千年後の社会を予想できるとは思えない。 科学技術もはるかに発達し、 価値観にも変化が現れているに違いない。 今の世代が思いやったことをありがたいと感じるかどうか、 疑問なところもある。

したがって地球温暖化問題とか廃棄物問題についても まずはここ2~3世代の問題として捉え、 そこでの最適解を見つければ十分ではなかろうか。 すなわちなにもしなくていいというのではない。 どちらも差し迫った急を要する問題である。

「どれぐらい後の世代のことまで考慮すべきか」も 結局は程度問題である。 必ずしも大きな対立軸ではないかもしれないが、 考えてもらいたいところである。

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