法は絶対か?


「法を守ることこそがモラルである」
基本的にはこれは正しい。
しかし、それは絶対的な真理だろうか?
民主的でない国においては、法は治世者の権利を守ることに主眼が置かれ、 しばしば国民を抑圧するために用いられる。 そのような法を破ることがモラルに反する行為であると主張される方は 少ないと期待する。
では、民主的な国で民主的に決められた法を破ることは 絶対にモラルに反する行為なのだろうか? 私はそうは思わない。法は常に完全ではない。 「普遍的モラル原理」は時に法を破ることを求めることもありうると信じる。
なぜこのようなことを書くかというと、 日本原子力学会での この論争があったからである。
「普遍的モラル『原理』」などというと 「イスラム原理主義」などを想起し印象が悪いかもしれない。 それなら「真理」と言い換えてもいいが、そうすると「オウム真理教」を想起させる。 普遍原理にしろ真理にしろ、それが何であるかは非常に難しい問題である。 そこで「普遍的原理」について若干補足しておこう。
「普遍的原理とは、良く理解した公衆の大部分が正しいと認めるもの」 というのが一つの説明である。 ここで注意すべきは「良く理解した」という部分である。 単なる多数決であってはならない。 単なる多数決は衆愚政治につながる。 しかし少数集団がいくら「我々は悟りを啓いた選ばれた者だ」と主張しても、 その主張は普遍原理たりえない。 例えばオウム真理教はこの間違いを犯している。
もう一つ注意すべきは、「普遍」は「不変」ではないことである。 その時点では普遍的に信じられていた原理が、次の時代には正しくないと 判断されることもありうる。
すなわち「これこそ普遍的原理だ」と示すことは容易ではない。 また、いくら普遍的原理だと主張しても、それが現実に法律違反であるなら 罰せられることはありうる。 普遍的原理の追求は結局は個人の責任で行うべきものであり、 それを追求する姿勢が倫理的であるという以上のことは なかなか言えないものである。
考えるのをやめると教条主義に陥る。 教条主義者の論理は必ずしも実例に則していない。 ある場合には正しくても、正しくない場合もありうるというのが 現実である。 現代の倫理学者は モラル原理を一応のもの と見ており、絶対的なものとはしていない。
普遍的原理とは、文章にした場合には所詮、 絶対的に「普遍」なものではありえないのである。

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